今から半世紀ほど前のこと、家族経営の商店では賃金や労働条件などを云々する前に仕事をこなすことが最優先されていました。我が家は繁華街川反通りに店があったため、来店客があれば夜は10時頃まで長時間労働は当たり前でした。秋田に引っ越してきて、酒屋を継いだ夫と私はそんな慣習を受け入れて生活をしていました。注文の電話が入れば夜の8時過ぎでも食事を中断して重いアルコール類のケースを配達していました。夫は、無理がたたって身体を壊し入院したことが二度もありました。
まだ小学生だった息子がこんな話を友達としたと話してくれたことがありました。
息子の友人「お前のとこ金持ちなんだか?」(何時遊びに来ても両親が忙しく働いていたからでしょうか)
息子「む~、だけど父さんも母さんもシッタケ働いてるや!」(シッタケ=秋田弁でいっぱい、死ぬほど)
お恥ずかしいことながら、子供たちの気持ちを想像する余裕はありませんでした。
1964年(昭和39年)東京オリンピック前後から始まった好景気はその後も上向きになり、商品は飛ぶように売れて、相変わらず働き尽くめの日々を送っていました。問屋やメーカーからの売り込み攻勢も盛んで、魅力的なノベルティも付けられタオルやシーツ、食器などは今思えば個人で買った覚えがないほどでした。そんな中、問屋やメーカーからの招待やら研修会や酒の会やらで、店主たちはよく出かけていました。多忙な店主の留守を引き受け中心になって支えていたのは女将さんたちであった。と、口には出さないけれども個人商店の女将さんたちは、多分自負していたことでしょう。
同じ様な環境で日々忙しくしていた秋田市内の酒屋の女将さんたち6人が申し合わせて、ささやかな自己主張をしたのはこの頃だったと記憶しています。尤もらしい大義名分はあります。「ワインの商品知識を身に付けて売上に貢献したい」
もう一押し!「月に一度ワイン持ち寄りの試飲会をレストランで、料理との相性も体験しながら開きたい」と、店主に切り出したのでした。同じ酒屋業界で店主たちは皆顔見知り。幸いにもダメ出しする店主は誰も居らず、結局1992年(平成4年)2月、時間をやりくりして6人だけのワイン研究会 ※ 「セパージュの会」がスタートしたのでした。
あれから時代は変わり焼酎、ワイン、日本酒とブームも変遷しました。スーパー、コンビニ、チェーン店などへと、酒屋業界の経営形態も随分変わりました。専門化により得意な分野ごとに棲み分けする様にもなって、仕事の内容も労働条件も変わりました。因みに我が家の場合は、店を閉めて休む完全休業日は毎週日曜日+α日で、月に何日も休める様になり身体は楽になり、休日を有効に使えるようになりました。2、3年前まで年中無休の酒屋さんが多かったのですが、最近では少しづつ休みの日を設ける傾向にある様です。インターネットで休みの告知が徹底できる様になったこともあるのかもしれません。時代の流れ、当然のことですね。
労働時間はと言いますと、我が家では店主が身体を壊すたびに働く時間が短縮されて、今では8時間以下になりました。あ、私はもっと短くなって忙しい時間帯にしか店に在席しておりません。半分引退。完全引退間近です。
「セパージュの会」が発足してから31年が経ち、30歳代40歳代だったメンバーも歳をとりました。勉強会の名目・大義名分はとうになくなり、開催回数も年に数回に減りました。いったん手にした女将さんたちの権利(?)はその後も手放さず、秋田市内の美味しい料理店を軒並み巡りました。男鹿半島や抱き帰り渓谷、弘前公園など日帰り小旅行も楽しみました。思い出は数々あります。
酒屋を廃業したメンバーもおります。最初に廃業したのはこの会の言い出しっぺで「セパージュ」と名付けたY子さんのお店。彼女とは次第に連絡が取り難くなって、鬼籍に入ったことも最近になって知り驚きました。その後も1店、そしてこの年末に廃業が決まったメンバーもいて、併せて3店が酒屋業から離れました。寂しくなりました。それでも、同業者だったからわかる悩みを吐き出し情報を共有し、病自慢(?)の話題も加わり「会」は細々と存続しています。
コロナ禍をなんとかやり過ごし夏の水害、秋口までの猛暑を乗り切り、きのう日曜日に4年ぶりの食事会が実現しました。集まったのは4人、時々会いたくなるのは皆同じです。
「お久しぶり!!」「調子はどうなの?元気にしていた?」 アレコレ‥‥アレコレ‥‥積もる話に花が咲きました。
※ セパージュとはワインに使われている『葡萄品種』の意味
11月の花、シャコバサボテンの蕾が色づき膨らみ始めました。