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励まされました(2014.06.26 THU.)

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緑濃いこの季節、ツーリングをするサイクリスト達何人もとすれ違いました。
体脂肪率がたぶん一桁台であろう若者たちが、突然前方に現れアッという間に後方に去ってゆきます。
緑陰の風を切り、引き締った肢体がペダルを漕ぐ様子は、美しく爽快です。
走る車の中から咄嗟にシャッターを押したので、よい写真が撮れなかったのが残念。

日曜日、東京から来秋田のOさん夫妻を案内して、いつもの温泉に向かう道筋。真夏には鬱陶しいまでに覆いかぶさる濃い緑の森の中で見た光景です。

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栗林の坂道を登って潟前公園にも寄ってみました。
田沢湖を見渡せる展望台でゆっくりお茶をして


毎度お馴染みの、田沢湖を俯瞰できる「アルパ駒草」の露天風呂に浸かりました。私たちが疲れた身体をリフレッシュするためのパターンです。

夕方からは「フランス料理で日本酒を楽しむ」集まりに、誘っていただきました。

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思いがけず花束のプレゼントをされて夫は大喜びです。
夫は6月22日が誕生日でした。


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この日の花言葉も戴きました。
「シモツケ草」花言葉も意味深です。

何時かって、まだ大分先かしら?


50歳代、60歳代の友人たちが、酔うほどにこれからの人生計画を楽しそうに語ります。
如何に前途悠々かを力説するのは、励ましの誕生日プレゼントのつもりだけではなさそうです。誰もがやる気満々で、生涯現役を通す意気込みなのです。
恐れ入りました。

そうですね! 戴いている年金なんぞは微々たる額ですし、何歳になっても「働かざるもの食うべからず」であることは間違いありません。 聞いているうちに段々その気になって来て、まだまだ働き続けられそうな気がしてきますから不思議です。

励ましの言葉の数々、ありがとうございました。
お陰様で、心のリフレッシュもできました。
by hanatabi-haruko | 2014-06-26 13:07 |

家業のこと ・ 11 (2014.06.23 MON.)

<人との出会いを作ってくれました。>

<家業のこと >を書こうと決めたことで、憧れであったり、目標にしたり、励みになったり‥‥お世話になった方達との様々な出会いを振り返るよい機会になりました。
川反通りで家業を営むメリットは、『どんな方達に出会う事が出来たか』に尽きると、つくづく思います。
タイムリーに色々な方たちとお会いできて、私たちは恵まれておりました。

店に足を運んでくれるお客さん。遠方から「お任せ」でお酒の注文をくださるお客さん。ご近所さんや友人知人。これまでにブログで紹介させていただいた方たちを含めて、家業40年を支えてくれた人はまだまだ沢山いらっしゃいます。身内では秋田市近郊に嫁いだ義妹に、何かに付け助けてもらいました。私の頭の中をもう少し整理して、ご紹介はまた次の機会に持ちたいと思います。

出会った方達への感謝の気持ちを抱きながら書き終えて、大雑把ながら40年の区切りをつけることができたように思います。肩の力が抜けました。何だか店をいつ閉めてもよいような気がしてきました。冗談です。 

ところで、以前、独身の女友だちが「誰それさんの奥さんと言うだけで、社会的に認められるのはずるい(=羨ましい?)」と言っていた事がありました。
確かに、地方都市(田舎)で女性が自立した生き方をし、認められるのは簡単なことではありません。たぶん、彼女は理不尽な質問に悔しい思いをしたことがあるのでしょう。

それを思いますと、私は夫の職業と肩書きに守られてきたのかもしれません。
<酒屋の女房>で通用する解り易さと、一方で職業としては<夫の補佐でしかない>頼りなさを感じながらでしたが。今はそれも「どうでも良いこと。」と吹っ切れました。

ふと見回せば、私たちと同年代でしかも昔からの酒販店さんは、う~んと少なくなりました。
「へぇ~、こんな酒屋さんがまだあるなんて、珍しいですね!」などと観光客の方に驚かれることもあります。コンビニに業態を換えたり、廃業したりで、この業界も随分様変わりしました。
私たちの場合、小規模な商いながら間隙をぬって生き延びてきたのは、家業100年の知恵が、ここ川反通りで培われて来たからと言えるかもしれません。

家業101年目はどうなるのか?心配して下さる方がいらっしゃいます。
少子高齢化社会の現代、それぞれの年代のそれぞれひとり一人が、知力体力を発揮して丁寧に生きてゆく。(誰にとっても未体験ゾーンです。)
幾つかの選択肢の中から、今はそんな日常が続けられればと思っています。
明日の不安よりも今日のお客さんの「勧めてもらったお酒、美味しかったよ!」の笑顔に支えられて‥‥。

今後とも、どうぞ宜しくお願い申しあげます。

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週末の川反通りの様子。夕方ともなれば、通りに人が出てきます。最近若い人が多くなったように感じます。


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 「珍しいお酒を入手した」と知人が、お裾分けを持って訪ねてくれました。


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名杜氏農口尚彦さんが「農口蔵」で醸した酒「農口」です。
 夫は丁度ブログ更新が済んだところ。農口さんの杜氏としての人生に思いを馳せ、早速飲みながらの酒談議です。
 知人は今夜の家飲み酒を1本購入し、帰っていかれました。どうもありがとうございます。



最後に、この<家業のこと>は、あくまでも私の記憶を辿って、私の主観で書いたものです。もし夫が書いたなら、当然異なる感想で違った文章になったことでしょう。曖昧な記憶や誤った認識があるかもしれませんが、責任のいっさいは私にございます。ご承知ください。        おわり    
by hanatabi-haruko | 2014-06-23 10:08 | 雑事

家業のこと ・ 10 (2014.06.20 FRI.)

 <マスコミ恐るべし!>

秋田市の夜の繁華街「川反通り」に店を構えているメリットとは、このことだろうと実感したことがあります。県外からのお客さんが多い通りです。
16年ほど前のある昼下がり、もしかして業界関係者かもしれない?と思われる紳士がふらりと店に入ってこられました。

一人で店番をしていた私は、夫の知識の受け売りをしながら、2、3種類の利き酒をおすすめしました。
その日はよい天気だったせいか、冷えたお酒を気に入ってくださり、丁寧なお礼の言葉をいただきました。

すっかり忘れた頃、月刊誌から取材のオファーがありました。
いらしたのは居酒屋評論家の太田和彦さんだったのです。
楽しい居酒屋評論のご本を出されている事は知っていましたが‥‥なんて幸運なことでしょう。お断りする理由などありません。
(私の感もたまには当たります。以来、秋田に取材でいらした時には突然訪ねてくださり、私たちを驚かせ喜ばせてくださいます。)

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あの時は、川反通りのめぼしい飲食店を下見されていたんですね。


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1998年、月刊誌「dancyu」(ご存知、男子厨房に入らずではなく、厨房に入るの略)で秋田の居酒屋が特集されました。


太田さんのご好意で小さい記事ながら、当店も紹介してくださいました。その所為もあって、太田さんファンが居酒屋さんで飲んだ後に当店にも寄ってくださる事があります。有り難い事です。

2013年、思いがけず、今度はBSチャンネル・太田さんの番組で、再び居酒屋さんと当店の映像が流れました。
マスコミが紹介する酒の世界。雑誌掲載やテレビ放映は、酒ファンを秋田に呼んでくれます。

お金を出したどんなコマーシャルよりも、真面目な酒評論家の推薦は強力です。
お陰様で当店では秋田酒、特に太田さんお気に入りの由利正宗「美酒の設計」の問合せが増えました。

もともと人気の居酒屋さんでしたが今や、「居酒屋酒盃さん」は週末連休は数ヶ月先まで予約でいっぱいだそうです。

秋田酒がズラリと並ぶ居酒屋の冷蔵庫を眺め、次に飲む酒をマスターに相談しながらショットグラスを開ける。秋田の酒は秋田に居て秋田の肴で飲むのが一番美味しい。
一杯ずついろいろな酒を試しながら肴との相性に舌鼓を打ち、好みの酒に出会う喜びもあります。『居酒屋のカウンターは酒飲みの学校』です。

(そんな学校「居酒屋酒盃さん」には、こまめに通って勉強せねばなりませんね。)

マスコミが紹介する酒の世界といえば、秋田の若き酒造家NEXT5のメンバーが
若者たちの注目を浴びているようです。
(情報を知り、秋田を訪れる若い日本酒ファンが増え、酒販店の私たちはおおいに刺激を受けています。)

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とりわけ、有りとあらゆる酒関係の雑誌に取り上げられて、今や若者のカリスマ的存在が、A酒造の若き蔵元さんです。


当店にもお酒の問合せ電話があったり、お酒を求めて来店されるお客様が、毎日のようにあります。それほど人気のA酒蔵のお酒ですが、品薄で全商品が冷蔵庫に並ぶことがほとんどありません。むしろ品切れ状態が普通で、わたしたちが説明するまでもなく売れるお酒なのです。

こうして、次第に新しい感覚の新しい飲み口のお酒に慣れて、世の中の嗜好が変化して行くのだろうと思います。

それでも私は、「話題酒で絶対量が少ないから欲しくなる」「一度飲んだから同じ物はいらない、次は何?」そんな若者が少なくないことが気になっています。
「ファンになったからずっと愛飲する」‥この先、若者たちの何%かがそうなってゆくのでしょうか?
それとも、そんな人情を必要としない、淘汰覚悟の世界に向かっているのでしょうか?

(私個人としましては、マスコミが過剰取材のターゲットを次に移し、A酒蔵さんに静けさが戻る日を待っているところです。)
by hanatabi-haruko | 2014-06-20 09:12 | 雑事

家業のこと ・ 9 (2014.06.18 WED.)

何十年も同じ仕事を続けているうちに、友人知人も増えてゆきました。

行きつけの小料理屋Kさんで。
1992年ころでしたか、日が暮れる頃、翌朝の朝刊記事を書き上げた新聞記者や、商店主、サラリーマン等、メンバーが小料理Kさんに三々五々と集まっては、ケンケンガクガク世の中を熱く論じ合う。
(時に激高して固く丸めたおしぼりが飛び交うこともあり、びっくりでした。)
中心にはSデスクがいました。

デスクはメンバーの発言を聞きながら、地方紙のコラムを書くような人を観察し物色していたのかもしれません。メンバーであった設計士さん、八百屋さん、いろいろな方がコラムを担当されたようです。
そんな場所に魅かれて何回も通ううち、デスクにのせられて、夫も新聞のコラムに「酒屋のおやじの定点観測」を書くことになりました。

夫は、デスクに何回もダメだしを出され、もがきながら文章の書き方を鍛えられていました。(熟考型で遅筆の夫は、何時も閉め切り間際まで原稿用紙を睨んでうなっていました。私はそんな夫を側でみていて、胃が痛くなることもしばしばでした。)

やがてインターネットの時代に。夫は見よう見まねでまずワープロで「酒だより」を、そしてPCを習得しホームページやブログで「秋田の酒情報」を発信するようになりました。

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重いものを自分で配達する商いから、情報を発信し、県外配達は運送業者に任せられるようになってゆきます。


(発送用の段ボール箱作りは私の担当ですが、その仕事、嫌いじゃぁありません。夫は1991年に2回目の「椎間板ヘルニア」の手術をし、その後は配達をやめました。以来20年以上、ヘルニアの再発はなくほっとしています。)

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義祖父が川反でいち早く始めた配達業務。開店当初は大八車で配達して、好評を得たそうです。写真は配達用の樽。


小料理屋Kさんは、それ以来のお付合いです。
1993年、10人前後の旧知の人たちで日本酒を飲む会「酣々塾」を開くようになってからは、定例会の場所を提供してくれています。
最初に立ち上げた「日本酒を楽しむ会」の時からの会員もいます。平均年齢が高くなったけれども、まだ日本酒好きが時々集まっています。

Sさんは、本社勤務より現場で記事を書くことを望む人でした。
今も何処か地方の出張所で、地元に根ざした新聞記事を書いているのかなぁ?
よい経験をさせていただいたと思っています。
by hanatabi-haruko | 2014-06-18 09:35 | 雑事

家業のこと ・ 8 (2014.06.07 SAT.)


<京都で秋田の日本酒を飲む会 >(2005~)秋田酒を京都ファンにお披露目。

京都には、秋田大好き人間が沢山おられます。
Fさんを筆頭に、Nさん、Iさん夫妻、そしてお友達です。

年に一度の「会」には、京都だけではなく、関東からも大阪、愛知あたりからも、飲み手たちが集まります。今年も既に、秋田から二組のご夫婦が京都行きに手を上げられ、準備してくれています。楽しみです。

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会場は、銀閣寺門前の白沙村荘さん。日本画家橋本関雪氏のアトリエだったお部屋で。雅なロケーションです。



Fさんの主催する会で初めて白沙村荘さんにお邪魔した時、
「こんなところで秋田の酒を飲んでみたいなあ。」と夢のようなことを言った夫に、
「やりましょう!」と、Fさんの奥様が言われて決まりました。
 

お店を閉じてからも、Fさんを中心に飲み手たちが機会あるごとに宴を催していたそうです。その会に一度参加させていただいたのがきっかけとなり、合同で「秋田の日本酒を飲む会 」を毎年開けるようになったのです。

それまでは、京都から秋田に来て戴くばかりでした。
今度は秋田の酒蔵の全てを京都に持って行く企画です。
ロケーション、料理は白沙村荘さんが。酒と蔵人は秋田から。全てが揃って宴も酣になるころには、参加者全員が熱烈な秋田ファンになってくれているのです。

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関西への出張は、蔵元さんにはご負担が大きく申しわけないと思うのですが、毎回快く出品と参加を承諾してくださり、有り難い事です。


2005年①回目のゲスト蔵は「天の戸」。以降②「刈穂」、③「まんさく」、④「天の戸」、⑤「まんさく(不死鳥の会)」、⑥「秋田5蔵(天の戸、新政、刈穂、まんさくの花、雪の茅舍)と上喜元」、⑦「Fさんを偲ぶ会」、⑧「横手3蔵(阿櫻、天の戸、まんさくの花)と京都2蔵(富翁、蒼空)」、⑨「天の戸と飛良泉」でした。(敬称を略させていただきます)
回を重ねていくうちに、意外にも京都のロケーションに秋田酒が似合うという自信も付きました。

10回目の今年は、何処の酒蔵さんが雅の京の夜を彩るのでしょうか?

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Fさんが出席された最後になった2010年の「会」。翌年の「会」は「Fさんを偲ぶ」という主旨で、ご家族が主催されました。


流石に日帰は無理ですので、「会」の夜は京都に宿泊いたします。
翌日は、小旅行が楽しみです。

京都には歩いてみたい小路、覗いてみたい美術館、入ってみたいお店、食べてみたい料理やお菓子などなど、興味をそそるものが無限にあります。

銀閣寺門前から関雪桜の紅葉にはまだ早い<哲学の道>を散策するもよし、千年の歴史ある街を地図をを頼りに碁盤の目を歩くのもよし。地下鉄やバスを乗り継いでいろいろ散策いたします。(そうして京都と私たちとの繋がりが、益々深まってゆくように思います。)

(「奥さんはどうしてこないの?」と、夫は京都の女性たちに再三聞かれたこともあって、店を連休し私も出席するようになりました。お陰様で、私も第2回を除いて全参加しております。Fさんご夫妻は何処に行かれるのもご一緒でしたので、夫もそれに倣ったのだと思います。)
実は43年前、新婚旅行に行った場所が憧れの京都でした。京都とのご縁は、その時からあったのかもしれません。

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ドクダミの花


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シラン


by hanatabi-haruko | 2014-06-16 10:13 | 雑事

家業のこと ・ 7 (2014.06.07 SAT.)

「酒蔵見学」が盛んになり、酒蔵がより身近になりました。

「吟醸ひやおろしの会」がきっかけで、蔵元さん、蔵人さんとの交流が盛んになり、見学者を受入れてくれる酒蔵さんが増えていったのは嬉しい事です。
酒蔵には、飲み手の意見を直接聞いてみたいという思いがあり、飲み手には、美味しい酒が醸される現場を覗いてみたい気持ちがあったからだと思います。

今では、酒造りが一段落する2月から3月にかけて、酒蔵を解放する日を設けて飲み手と一緒に盛大に(お祭り気分を)楽しむ蔵もあります。
一方で、清潔な酒蔵に雑菌が入ることを警戒し、また造りに集中するために見学を断る酒蔵もあります。そのどちらも正解なのだと、私は思います。
(蔵人が発信する酒造りの情報は、飲み手が知りたい情報です。その仲介ができるのが酒販店であり、私たちの仕事なのだと自覚するようになりました。)

また、酒蔵を訪ねるうちに、蔵元さんとタッグを組んでのオリジナル(企画)酒も生まれました。
飛良泉(市兵衛)、天寿(ふりかえれば鳥海)、千代緑(一ノ渡)、秋田晴(ヨーイトナ)、天の戸(ランドオブウォーター)などなど(敬称略)。

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やまとしずくは、取扱店をより広げた企画でした。

(当時、酒造メーカーには、純米酒ブームに乗り時代の要求に応えようとする意気込みがあったように思います。)


蔵元さんと杜氏さんのコンビの存在を知り、興味をもったのが浅舞酒造さんでした。
「吟醸ひやおろしの会」には、快活な杜氏さんが蔵を代表して出席される事が多かったように記憶しております。
それまでは、酒のイメージはTVコマーシャルが作るものでした。蔵の社長さんや、ましては直接酒を造る蔵人の「顔は」全く見えませんでした。
Mさんは機会あるごとに紹介されて、酒蔵の「顔」になっていきました。

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出版されたご本。
「夏田冬蔵」の造語や、商品名「五風十雨」は、夏は米造りを生業とする杜氏さんの誇りを感じさせてくれます。

(「五風」‥稲の成長には適度の風が稲を揺さぶり、しっかり根を張ることが必要なのだそうです。養分を吸収するためにも。へ~、そうなんだ! 米=稲を熟知する蔵人による酒造り。酒は農業生産物であると認識しました。)


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「稲の成長を追う写真」は、Mさんが田んぼで稲を育てながら撮影したカレンダー用のものです。


酒造りの冬だけではなく夏も紹介され、「夏田冬蔵」さんの一年間にロマンを感じるカレンダーは人気でした。
酒の背景には田んぼの景色や豊富な水があり、酒を醸す蔵人たちの働きがあります。そんな物語を知ることで、お酒が更に美味しくなるから不思議です。

やがて京都で「秋田の日本酒を飲む会」が開催されることになりますが、京都のファンNさんの熱望で、第一回目のゲスト蔵は天の戸浅舞酒造さん。故柿崎社長と杜氏さんの参加で決まりとなりました。

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近くの神社に白い花が咲いています。

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雪の下


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トリアシショウマ


by hanatabi-haruko | 2014-06-12 14:39 | 雑事

梅雨の晴れ間の熱海(2014.06.10 TUE.)

日曜日、月曜日の連休に、わざわざ梅雨入している関東に出かけました。
何時もの事ですが、仕事を忘れて気分転換するために。

東京は前日まで大雨に見舞われていたそうです。ようやく雨が収まり霧雨になったことに、ホッとしている様子でした。

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今回の楽しみは、まず上野の芸大美術館で「法隆寺展」を観る。


チケットの仏像は国宝の毘沙門天と吉祥天。実物は薄らと彩色を止め、千年の時を越えて当時の感動を今に呼び起こすものでした。

そして、秋田県出身の鈴木空如が明治から昭和にかけて、根気よく模写した「法隆寺金堂壁画」です。同じ秋田県人として、是非とも観たかったものです。
洋の東西を問わず、独創的と思われる創作も、先人の作品に学ぶ(緻密な模写)ことから始まるのだろうと、あらためて感じました。(ヨーロッパの薄暗い教会の中で、熱心に聖人像をスケッチする画学生を見たことを思いだします。)

鎌倉時代の「聖徳太子二歳像」は、朱色が衣服の裾にまだはっきり残っていて可愛いく、見入ってしまいました。。

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上野の精養軒での昼食後、「西郷さん」に会いに行きました。


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馴染みのない鈴なりの赤い花は「アメリカデイゴ」だそうです。

孫娘が「西郷さんの横にある赤い花」でスマホ検索してくれ、解りました。



年齢も興味の対象も異なる家族4人(今回は夫、息子、孫娘と私)が、朝から行動を供にして、移動しながらも飲食しながらも、久しぶりの家族ならではの突っ込んだ会話に夢中になりました。それぞれが少しづつ気遣いながら、一緒にいることを楽しんだ一日でした。

翌月曜日、空は青空です。久しぶりの太陽だそうです。
予定していた通り、熱海まで足を延ばして「MOA美術館」に行ってみました。

熱海駅前から急勾配の細道をバスに乗って、山の上の美術館に着きました。
そこから館の入口まで更に、階段で登れば457段。流石にそれは不可能で、大小合わせて7台のエスカレーターを乗り継いでやっと辿り着きました。
よい眺めです↓

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国宝。野々村仁青の通称「藤の茶壺」


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竹内栖鳳の「翠竹野雀」。どちらもポストカードです。


庭園も素晴らしく、湾からの涼風は竹林の笹を揺らして心地よく↓

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その名も「竹風」亭で、


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一服の抹茶で一息入れました。


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駅前バスターミナルに戻り、せっかくですので温泉にも浸かりたい。日帰入浴OKの<かんぽの宿・別館>へ再びバスで山の上に向かいました。


海岸沿いに密集する温泉街と、湾を行く遊覧船。のどかな景色です。↓

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水平線は、海と空との境が解らないほど靄っていますが、太陽が燦々と降り注いでいます。
月曜日の温泉は入浴客も少なく、ゆっくり湯船に浸かった後は、大広間で眠ってしまいました。熱海で昼寝なんて、なんと贅沢な。

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帰りには<お宮の松>前で下車し、


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<貫一お宮>ではありませんが熱海の海岸を少し散歩。


その後、急な坂道、階段を駅までゆっくり登って行きました。

熱海は秋田より遥かに都会でしたが、自然に恵まれた地です。田舎者の私たちは、何処に居てもやっぱり自然に魅力を感じ、自然をみつけてはほっとしておりました。

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それにしても、羽田空港ターミナル屋上の雀は、餌を求めて随分人なつこかったなあ。


by hanatabi-haruko | 2014-06-10 19:20 |

家業のこと ・ 6 (2014.06.06 FRI.)

<美味しい酒は自分たちで飲もう>「秋田吟醸ひやおろしを飲む会」(1990~2002)県外からも蔵元、左党が集合。 

「出羽の雫」販売会のメンバーが酒蔵に何回も通ううち、蔵元は、
「こんな美味しい酒を知っているか?」と、大事に取っておいた大吟醸ひやおろし酒を、(自慢げに)一口飲ませてくれたそうです。(それが‥‥間違い?でしたね。)
どの蔵にも美味しい隠し酒があることを、知ってしまったのです。
酒蔵の稀少酒「大吟醸ひやおろし酒」を皆で飲もうという発想が生まれたのは、自然なことでした。

そのころどの酒蔵でも自社のお酒が一番。愛社精神なのか、県内他蔵のお酒もほとんど飲んだことがなかったのではないでしょうか。
ましては他県には、美味しいお酒がまだまだ沢山あることを知ろうともしていなかったように見えました。
「他県の話題の酒を飲んでもらい、秋田の酒造りの参考にして欲しい。」というのが、「会」のもうひとつの目的になりました。
いざ声を掛けてみますと、県外の酒蔵さんも快く応じてくれました。

スタートは参加者60人。後に共催する酒販店は6人に増えて、気持ちが大きくなりました。

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参加者100人を越えた2回目3回目は、川反の料亭濱乃家さんが快く引き受けてくれました。


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そして参加者が100人を大きく越えた4回目以降は、榮太楼旅館さんがほぼ全館貸し仕切り状態で引き受けてくれました。


多いときで最高170名の参加者が、全員しっかりテーブルに着き、美味しい料理を肴に各蔵自慢の吟醸ひやおろしを味わい、蔵元さん杜氏さんと交流したのでした。(私たち酒屋の女房連中は、準備と当日の受付、集計などの雑事を担当し、酒屋の主人たちを支えました)

「出品酒の利き酒」、「人気投票」、「杜氏さんによる講話」もあり、誰もが喜んで自腹を切って遠路から来てくだり、楽しんでくださいました。

一般の飲み手が酒造関係者と話をする機会など、ほとんどなかった頃のことです。蔵元さんや杜氏さんにはホスト役になってもらい、自社の宣伝の機会にしてもらいました。ここで出会った蔵人からの誘いで、造りの最中に蔵を見学するチャンスが増えました。(私も造りの現場に行くようになり、工業製品とは違う造りの世界に魅了されて行きました。)

京都のFさんはお仲間と一緒にご常連でしたし、京都のNさんも常連になりました。
蔵元さんでは、遠くは佐賀県の東一の瀬頭さん、山形県の上喜元の佐藤さんが第4回目から欠かさず出席してくれたことが忘れられません。

大勢で集まる場所と美味しい料理を提供してくれる協力者にも恵まれました。
良い会場が準備できなければ、成立たない企画でした。快く協力してくださり、一緒に楽しんで下さった料亭さん、旅館さんに心から感謝しております。 
2006年、栄太楼さんは旅館を廃業され、想い出の旅館はマンションに立て替えられました。

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「10周年記念に冊子を出すべきだ」と篠田さんから原稿が送られてきたことで、充分な準備がないまま発行した冊子。急な原稿依頼にもかかわらず、多くの関係者が寄稿して下さいました。

 
冊子のご挨拶には夫の文章で、
商売上手の新潟だったら、「幻の‥‥」として東京で大宣伝をしたでしょう。我慢の山形だったら、地元では二級酒を飲んでも県外に出荷したでしょう。
それを「自分たちで飲んじゃおう」と思ったのが、いかにも秋田の人間でした。
 
とあります。(まさにその通りの贅沢を13回も続けたのでした。)

1991年の全国新酒鑑評会では「AKー1」酵母(秋田流花酵母)が高評価を得ました。県内40蔵による統一銘柄「旬吟醸」が企画され人気を博しました。吟醸純米酒が店頭にも並びちょっとした秋田酒のブームでもありました。(販売促進のため、私はディスプレイを工夫したり、張り紙を何枚も描きました。)

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季節はもう夏です。その証拠に夏花=白い花が目立ちます。

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エゴの木の花


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ヤマボウシ


by hanatabi-haruko | 2014-06-06 10:46 | 雑事

家業のこと・ 5 (2014.06.04 WED.)

<純米酒への期待>仲間との出会いと蔵元の協力で生まれた「出羽の雫」

1987年の夏、日本海中部地震の津波でお兄さんを亡くされ、酒販店を継ぐ為に帰省された神宮寺町のAさんが、ふらりと来店されました。
Aさんは、県外での職業経験をふまえて、理想の秋田酒を模索されていたのでしょう。自ら発行する「さけしんぶん」の取材を兼ねて、当店を訪ねてくれたようでした。

取材を受け話をしていくうちに、「純粋な酒を目指す」ところで意気投合したようでした。同じ酒販店同志で、心を許せる頼もしい仲間の出現でした。(純米酒の定義もはっきりしなかったころのことです。私は、二人の熱い会話を側でじっと聞いていました。)

Aさんの出現は、夢の実現に一歩近づける力強いものでした。
地元に根ざしたAさんの人脈で、「昔生酛造り純米酒」の仕込みが刈穂酒造さんで始まり、数年後には酒米農家との有機米栽培の契約もできました。同時にAさんを中心に蔵での仕込み見学がはじまりました。

1989年の11月1日(日本酒の日)、夏を越した新酒「出羽の雫」1000本(1.8ℓ)の新発売にこぎ着きました。販売者はGさんを加えた3人で出発。マスコミにも紹介され、1週間も経たないうちに完売いたしました。

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思い入れのパンフ(初年度版)


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写真は2年目の仕込み、メンバーは4人になっていました。
側で心配そうに見守ってくれているのは、T杜氏さんと営業のOさん。
お世話になったおふたりです。


以来「出羽の雫」は、発売当初からのファンに支えられて現在に至っております。

刈穂酒造さんにはひとかどならぬお世話になりました。
蔵見学のお願いはもちろんのこと、新しい挑戦を考えた時、惜しまず協力をしてくださったのは刈穂酒造さんでした。(まるで、子どもの成長を応援してくれるように)

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伊藤社長さんのお宅(豪農の邸宅)で酒宴を催した時に、お土産に戴いたミニ盃2脚。ままごと遊びの湯のみ茶碗ではないんですよ。


(大曲の花火大会へお誘い戴くようになってから20年以上経ちました。花火を観て、益々秋田ファンになったお客さんは沢山おられます。日曜日の催しには、私も欠かさず参加するようになりました。)
 

ところで、由利正宗さんの「美酒の設計」。「出羽の雫」がブレイクした翌年に、秋田市内の別の酒販店グループさんが企画したものでした。(今は廃業されたI酒屋さんの社長さんがある日来店されて、「柳の下にもう1匹どじょうがいると思ってこのオリジナル酒を造ってもらった。」と、私に打ち明け話をしてくれました。)

「美酒の設計」はご存知、名杜氏高橋藤一さんご自慢の一酒です。
今や大人気酒に成長しました。(人気になった理由は後の回で触れますが、酒そのものの酒質もさることながら、10年以上も「美味しい。好きな酒だ。」との感想を言ってくださっている太田和彦さんの力が大きいと、私は思います。)

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↑ ベランダの薔薇が咲き始めました。
by hanatabi-haruko | 2014-06-04 09:17 | 雑事

家業のこと ・ 4 (2014.06.02 MON.)

家業のことを書き始めて、40年間の秋田での生活を年代を追って振り返る機会になりました。私の解っている範囲ではありますが、辿ってみます。
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<大先輩との出会いがきっかけ>「秋田で日本酒を楽しむ会」

1973年、秋田に戻ると早々に、夫は酒販組合青年部に入りあちこち研修に出かけたり、東京で開かれていた酒関係者の集まり「美薫の会」にも顔を出すようになりました。たぶん、酒屋としての目標を探していたのでしょう。(そのころ私は、秋田弁が外国語に聞こえ、電話をとるのが怖かった。)

秋田に来て3年程経ち代表権が義父から夫に替わり、8年ほど経ったころ、青年会で知り合った有志と「秋田で日本酒を楽しむ会」を始める話が持ち上がりました。同じ酒屋仲間のAさん、Kさん、そして数人のお客さんが中心でした。(このころ私は、家族や通って来る従業員の食事作り。第二子を背負って店に立ち、留守番もするようになっていました。)

1982年、初めての試み「秋田で日本酒を楽しむ会」の発会を応援し背中を押してくださったのは、故秋田醸造試験場の場長池見元宏先生と、美薫の会の篠田次郎さんでした。
当時、学者である池見先生は雲の上の存在ながら、酒蔵に出向いて蔵人に直接指導をされる忙しい方でした。篠田さんは飲み手の側から「幻の日本酒を飲む会」を主催され、吟醸酒の仕掛人と言われ、酒蔵に歯に衣着せぬ苦言を呈することのできる数少ない方。話題のお二人でした。

ある酒蔵の麹室の設計で秋田に来られた篠田さんは、池見先生とよく飲まれることがありました。そんなことを何故知っているかといいますと、
「吟醸酒を配達して!」スナックのママさんから突然の注文が入ることがありました。お二人がいらした証拠です。
「わかりました!すぐ伺います!」
(夫は嬉しそうに吟醸純米酒を持って飛び出して行きます。そんなことが何回かありました。)


飲食店で置いている日本酒と言えば、お燗用の二級酒の時代でした。なのにお二人は、当たり前のようにカクテルグラスで吟醸酒を飲んでおられたそうです。

日本酒にかけるお二人の情熱を知り、お話をする機会が増え「会」発足へと繋がったと思います。

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それまで、二級酒を飲み潰れるまで飲むのが秋田流でした。
お酒を真面目に味わって飲むことに慣れていなかった飲み手たちは、新しい何かが始まりそうな予感がして、会に夢中になったものでした。


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会でのショット。左から故川口社長、故池見先生、何故か醗酵学の小泉武夫さん。
若者たちの新しい試みを、面白がって協力してくださった方々です。


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直筆のおはがき。特徴のある字です。
池見先生は、酒造業界の発展を最後まで気にしておられました。


「会」は池見先生がご病気で54歳で亡くなられた年(1984)に閉じられました。
(直接お目にかかる機会は少なかった私ですが、優しいお人柄を忘れられません。

二人の大先輩に影響を受けて、やがて秋田らしい本物の酒=正統派の純粋な酒を商いたいと思うようになりました。

1985年、日本海中部地震が起き、翌年店舗兼住宅を立て直しました。
「巨人・大鵬・卵焼き」ならぬ、「高清水」と「サントリーオールド」と「キリンビール」があれば酒屋は成立つと言われた時代でした。

注文がくるままに売り、借金を払う為にがむしゃらに働いておりました。が、「理想の秋田の日本酒」を商いたい気持ちは益々強くなっていきました。(酒についての知識は夫の見よう見まね。お店の手伝いと食事作りに追われていた頃です。1986年、夫は椎間板ヘルニアで入院手術。「売れるから売る」だけでいいのか?体力に限界があることを思い知らされました。)
by hanatabi-haruko | 2014-06-02 10:57 | 雑事